主宰Sapphira・連絡先

アンサンブル・サフィロネビ主宰

ジョージアンダンス倶楽部主宰

ジョージア大使館公認タマダ

アーティストバンクいたばし登録アーティスト

リロクラブ提携教室

誕生石の「サファイア」をダンサー名にしています。
昔、青い石はすべてサファイアと呼ばれていました。「アンサンブルサフィロネビ」はコーカサスの歴史にゆかりの深い青い石「ラピスラズリ」に由来しており、ノグチマサフミ氏につけていただきました。

出演依頼などはこちらからお問合せ下さい。

担 当:サフィーラ

お問合せ:gdlovejapan@gmail.com

アンサンブル サフィロネビはアマチュアのグループです。野外イベント、商店街イベント、企業イベントの出演多数。学童保育でのボランティア出演も承っております。

また、プロダンサーによるジョージアンダンスでの出演も可能です。

<略歴>

各国の民族舞踊をたどるうちにジョージアの民族舞踊を知りその踊りの芸術性に魅了される。2019年、2022年にジョージアに渡りスヒシュビリのコレオグラファー及びルスタビの現役ダンサーに学ぶ。現在もオンラインにて現地指導者に学び続けている。
2023年5月に第一回ジョージアフェスティバルを実行委員として立ち上げる。
海外活動経験を活かし現在このフェスティバルに向けて精力的に動いている。踊りを通しての国際交流に力を入れている。

<アンサンブルの方針>
ジョージアンダンスを通して「人生に楽しい場所を作る」ことです。


結婚、子育て、ご主人の転勤、介護、持病などなど、様々な理由で一時的に「他の人の為に使う時間」を優先しなければならない方が沢山います。そしてその理由のほとんどは「人との関わり」を一時的に少なくしてしまいます。そんな孤独感を一瞬忘れる場所として習い事を楽しんでいただければと思います。

同じ趣味の方々が集まるのでお話も楽しいでしょうし、悩みを話せたり共感してもらえるかもそれません。レッスン前後には生徒さん同士お茶を飲んだり一緒にご飯を食べることもあるでしょう。そして一緒にダンスが上達していくのは希望があります。そんな場所を提供するのが私のお仕事です。


一時的に離れてしまってもいつでも戻ってこられる場所。いくつになっても、ワクワクするような綺麗な衣装を着て飛び切りの笑顔で舞台の上で輝いて下さい。みなさんの人生を応援しています。

<プロフィール>
20年間、菊池体操で身体と心の育て方を学び、2006年1月からベリーダンスを始める。同年暮れネットサーフィンでファットチャンス ベリーダンス(以下FCBD)に出会う。日本で教える人がいなかった為、米国よりFCBDのDVDを取寄せ自主練の日々送る。半年後、FCBDで学んだみさと(サラシュクラ主宰)が帰国、みさとに師事。併せてFCBD創始者のキャロリーナ・ネリッキオの直接の指導も受ける。サラシュクラ解散に伴い、2011年4月にMAHA主宰のアルカマラーニ ダンス オリエンタルカンパニーの門戸をくぐりMAHAとKIYOKOに師事。FCBDに出会って以来、その踊りのルーツである民族舞踊に興味を持ちジョージアンダンスに出会い、現在はジョージアンダンスを日本に広めるべく活動中。FCBDが後に日本で人気となったため、古くから私を知る友人たちからは「貴女が見つけたダンスだからきっと流行るね!」と応援を受けている。


<海外活動歴>

2010年P.U.R.E.Tokyo 第5期のメンバーとなる。 (本拠点NY)

同年11月にP.U.R.E日米合作公演「Reflections」横浜公演に出演。

https://www.youtube.com/watch?v=j34du-W3EJw&t=21s

2011年P.U.R.E. Reflections 台湾公演に出演。


<受賞歴>

2014年トルコのRakkas Istanbul Oriental Dance Festival のコンペに於いてグループフュージョン部門 で優勝。


<国内活動歴>

2015年ケイシーチャイ主宰ベリークイーン「Journey Along the Silk Road 」を主催し出演もする。

「Journey Along the Silk Road」U.S.プロモーションビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=oVGjMYQQYgs

2016年10月 ストーリーのあるベリーダンスショー「うたかたの月」の脚本を手がけ出演もする。

2018年1月 「うたかたの月」大阪公演主催、出演。

2018年11月 「うたかたの月」岡山市芸術祭参加作品出演。

2019年4月 ストーリーのあるベリーダンスショー「シャーマラン」の脚本・構成。演出を手がけ出演もする。

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2020年12月 ジョージアンダンサーとしてノグチマサフミ氏とホール公演に出演

2021年6月 「ユーラシア音楽コンサート」に出演。生演奏と共にジョージアンダンスを披露

2021年8月 女性がテーマのホール公演「おどるママ・しあわせぼくら」に出演

2021年9月 民族舞踏がテーマのホール公演「未知の魅力」に出演

2021年11月 トルコ建国100周年前夜祭がテーマのホール公演「DUM TEK」に出演

2021年12月 松島でホール公演「クリスマス チャリティーコンサート」に出演
2022年5月 民族舞踊合宿を河口湖で主催

2022年6月・10月・1月 マリーコンツエルトにて自主企画ショーを行う
2023年5月 第1回ジョージアフェスティバルを実行委員として立ち上げる

<人物像をもっと知りたい方へ>

私はジョージアンダンスを教えていますが、作りたいのは「ダンスを通して女性たちの人生に楽しい場所を作る」ことです。

結婚、子育て、ご主人の転勤、介護、持病などなど、様々な理由で習い事を一時的にお休みしなければならない方が沢山います。そしてその理由のほとんどは「人との関わり」を一時的に少なくしてしまいます。そんな孤独感を一瞬忘れる場所として習い事を楽しんでいただければと思います。同じ趣味の方々が集まるのでお話も楽しいでしょうし、悩みを話せたり共感してもらえるかもそれません。レッスン前後には生徒さん同士お茶を飲んだり一緒にご飯を食べることもあるでしょう。そして一緒にダンスが上達していくのは希望があります。

そんな場所を提供するのが私のお仕事です。一時的に離れてしまってもいつでも戻ってこられる場所。いくつになっても、ワクワクするようなエキゾティックな衣装を着て飛び切りの笑顔で舞台の上で輝いて下さい。

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高校時代の友人は還暦の私がダンスを踊っていることをさほど驚きません。高校時代、体育の授業で創作ダンスがあり、クラス対抗で優勝したときに率先的に作品作りをしていた過去があるからです。ダンスをやりたいな、と思いつつ3人姉弟の子育て中の親には美大に行くための予備校の費用を出してもらっていたのでお金のかかることは言い出せませんでした。高校時代は合宿も卒業旅行も親にお金を出してくれと言えず、親に甘えられる同級生がとても羨ましかったのです。

美大に進学しアルバイトでお小遣いを稼ぎだした頃、水道橋にある社交ダンススクールの扉を開けました。平日の昼間で大学の社交ダンスサークルのトップの人たちがレッスンを受けていました。「ダンスを習いたい」と言う私にかけられた言葉は・・・。「お金がかかるのであなたができる習い事ではないですよ」。ダンスを教える立場の人に、貴女にはダンスを習う資格がないと言われました。

私とダンスの出会いはこんな悪夢のような出来事から始まったのでした。

ある日、先に社会人になった友達から実家近くの駅に「新しくできたジャズダンス教室があるから一緒に習おう」という誘いがあり、初めてダンスを習い始めました。ほどなくすると男女雇用平等法が施行され会社の勤務時間が伸びてレッスンの時間に間に合わなくなり習い事のダンスは辞めることに。

数年後、転職した私は茅場町の勤務先の近くに社交ダンス教室をみつけ、性懲りもなくまた扉をたたきました。

子供の頃テレビで流れていた古いハリウッド映画で女の人が男の人とダンスを踊っているシーンに憧れ、素敵な女性になるために踊りが踊れるようになりたかったのです。そのお教室には私と年が近い生徒さんもいて、たいてい私のレッスンの前がその方だったのでお友達もできたりしました。ところが私担当の若い先生がパートナーの女先生の事を小馬鹿にしていて、いつも生徒の私に悪口を言っていました。ダンスを習うことは楽しかったのですが、その先生の人間性に耐え切れずダンスを辞めてしまいました。

なぜか、私にとっては趣味でダンスを習うのも簡単ではありませんでした。

結婚して第一子を出産して職場が変わりました。ワーキングマザーには「自分の為の時間」がありません。それでも気分転換にと、会社の昼休みに抜け出して徒歩7分の所にある社交ダンス教室に顔を出しました。往復で15分+30分のプライベートレッスン。この教室は浅草橋と言う場所にあるからか庶民的なご夫婦が先生でご近所の奥様が習いに来るような感じのところでした。初老の先生の指導はとても分かりやすくお人柄も良く続けたかったのですが、デザイナーという仕事上、打ち合わせで外出なども多く、幼かった子供の発熱で早退したりと、これまた続けることができませんでした。

私の20代はこんな感じで、ダンスの神様に振り向かれることなく過ぎていきました。そして30代はデザイナーとしてのキャリアが花開きモリモリ仕事をしていたのですっかりダンスの事は忘れていました。

そして41歳を過ぎたある日、私の目の前にダンスのミューズが現れました。

41歳で次男を出産した私の産休中に、私の仕事をしてくれていた女性がベリーダンサーだったのです。

産後の運動不足解消にフラメンコでも習おうかと思っていたので彼女の勧めでベリーダンスの体験レッスンに行きました。ベリーダンスは特にやりたい踊りでは無かったのですが、身体を動かしたかったので、会社帰りに通えて、子供の発熱時に他のクラスに振替でレッスンチケットが消化できる、と言うことでそのスクールに決めました。

2006年はベリーダンスブームの走りで、若い生徒に交じってセクシーポーズをとる鏡の中の自分が恥ずかしくて正視できず💦いつも後ろの方で動いていました。ステップとアームの2動作を同時に動かすことができない自分に「ボケの兆候の危機感」を感じ、ただ脳トレとレッスンで汗をかくことで冷え性が治ったり、身体の調子が整っていくことを感じられたの続けていた日々でした。スクールの発表会でもどんくさい私は、学生時代にダンス部だったという年下のレッスンメイトに、発表会本番のリハの時に先生が指示した私の立ち位置が気に入らなかったのかステージの降ぎわに「あんたがそこに立ったら私が客席から見えなくなるじゃん‼」と言われ、「ダンスの世界って怖い~」と洗礼を受けました。

そんなある日Youtubeで「私が踊りたいのはコレだ!」と思った踊り、ファットチャンス ベリーダンス(以下FCBD)に出会いました。衣装のコンセプトからそうれはアートでした。そして日本では教える人がいなかたのでDVDをアメリカから取り寄せ自主練の日々を過ごしました。

その半年後にサンフランシスコ帰りの方がFCBDを教え始めました。ダンスミューズからは「その人2ちゃんで酷評されているの知ってる?」と言われたけど他に教わる人がいなかったので通い始めました。20代後半の講師経験の無い先生に40過ぎのなかなか上達できない私が習う訳ですから色々ありました。4年ほど習っていたのですが、最終的には直接FCBDを習っていたその先生ではなく、途中から先生の勧めで受け始めたフュージョンクラスの先生の態度に嫌な思いが募り、長男の大学受験を機に辞めました。私の先生はその別の先生を含めた数人でグループを作りダンサー活動をしていましたが、私が辞めて半年後にそのグループもあっさり解散してしまいました。何年か後に生徒でいた数名の方々とその当時の話になりとても共感され同情されました。多少の違いはあれど皆似たような目にあっていたからです。その時先生方と一緒に活動していた方々でダンスを辞めてしまった人が何人もいると聞きとても悲しくなりました。せっかく好きなダンスが教える人の人間性で辛いものになってしまいます。

心底FCBDスタイルを愛していた私は、FCBDの講師になろうと思いました。そして上記のFCBDを習った先生にその旨を伝えるととても喜んでくれました。その頃、FCBD講師になるためには最低限1つは他のジャンルのダンスを踊れなくてはならない、とHPに記載がありました。そしてオリエンタルを踊りたかったわけではありませんが、以前から私が好きなベリーダンサー達が皆そのスクール出身だったということで、アルカマラーニの門戸を叩いたのです。丁度長男の大学入試が終わり、東日本大震災があった年の4月でした。

そこを主催するMAHA師匠さんは別格でした。ようやく心から尊敬できる師匠に出会いました。彼女は紛れもないアーティストでした。そしてそのスクールでKIYOKO師匠にも出会うことができました。丁度KIYOKO師匠がそのスクールから独立する時期にあたり、どちらも素晴らしいアーティストだったので私は両方のレッスンに掛け持ちで通っていましたが、ある日私の耳元でささやく人がいました。「どっちつかずの人は大先生は嫌いだよ」と。(現在その方は大先生の側近として活躍されています) そんなことがあり現在の師匠に至ります。現在の師匠によって私はここまでダンスを続けることができています。大先生と現在の師匠は私にはとてもとても大切な師匠です。

2017年暮にフェイスブックで上がってきたダンスに心奪われ、説明文がロシア語で分からない中、探しに探してそれがジョージアの民族舞踊であることにたどり着きました。それから見よう見まねで自主練するにもマキシ丈に隠れた足のステップが全く分からず。2019年10月、2年越しの思いを抱いてまたく言葉もわからない話せない中ジョージアに飛び、そこでも素晴らしい師匠に巡り合うことができました。

そこから縁あってジョージアンダンスと共に現在に至ります。

FCBDは今では日本のベリーダンスの世界でも多くの方に知られ、踊られるようになりました。昔の私を知る友人は、ジョージアンダンスに関しても「貴女が始めたダンスなら必ず流行るね!」と言ってくれます。

2006年1月から始めたベリーダンスからもう18年目になります。不思議なことに私がダンスを始めた2006年以降はそれなりに色々ありましたがダンスをずっと続けることができています。ベリー友達の中には「もっと若い頃にベリーダンスに出会いたかった」と言う人もいるけど、私の中では今が「ダンスの神様がダンスをしても良いよ」と言って与えてくれた時間だと思っています。

すでにあと何年踊っていられるかを数える年齢ですが、私の愛するこのジョージアンダンスを残された時間の中でどれだけ日本に広めることができるか、今は神様が出会わせてくれたこの大切な踊りと共に日々精進しています。

こんな私ですがジョージアンダンスを広める夢を持っています。生徒である時期長かったのでいろいろな経験をしました。私が大切にしたいのは「1人ひとりのダンスが好きという気持ちを大切に、ダンスと共にある人生が輝く」ようにお手伝いすること。

高校の時の同級生たちも還暦を迎え、立派に社会人を勤め上げ定年後の隠居生活を考える人が多い中「夢をもって頑張っているんだね、元気貰ってるよ」と応援してくれています。そんな応援団に支えられて今日も頑張ります。

長々お読みくださりありがとうございます。

どうぞ応援し頂ければと思います。

皆様よろしくお願いいたします。